たきぶろぐ

「大人」になりたくない人の雑記

ホームレスの言葉に怒りを覚えた

たきです。

先日、櫻坂46カフェに行ってきたという記事を投稿しましたが、その続きというか、その日の帰り、東京のとあるターミナル駅で起こった出来事を記事にしようと思います。

僕自身、今年専門学校がはじまって以降、週に何回か登校する日があるのですが、その帰り、そのターミナル駅で乗り換えをするのですが、その乗り換える途中の駅の通路に、ホームレスが何人も座っているんですよね。

毎回ほぼ同じ顔の人たち。マスク付けてるからあまり気にならないけど、多分その服や身なりからして何週間も風呂には入ってないと思う。

なぜ駅に居るのかというと、僕はそういう経験がないので分かりませんが、夜に街で野宿するより、駅の中に居た方が安全、安心なのかと。最近は寒くなってきてますしね。

そして、あともう一つ。このホームレスたち、柱の傍に座って、何かポーチみたいなのを広げていて、お金を入れてもらっているんですね。投げ銭のようなものです。

通り過ぎる時にチラっと見ますが、いつもは小銭が何枚か入っているレベルで、ギリギリペットボトル飲料1本買えるか買えないかくらいの値段だったと思います。

賛否両論あるでしょうが、僕はそういう人たちに投げ銭はしません。なぜ投げ銭しないのかは下で書くことにします。

 

そして、冒頭にも書いた、櫻坂46カフェ、櫻坂46デビューカウントダウンライブの帰り、この駅で乗り換えるために、いつものように駅の中を歩いていたら、またいつものホームレスがポーチのようなものを床に置いていました。

ただ、いつもとは違うことが一点だけありました。それはポーチの中に1000円札が入っていたことです。誰かが入れたんだろうなあーと僕はそのまま通り過ぎたのですが、その時ホームレスがこういいました。

「ほら、1000円も入れてくれる親切な人がいるのに、あんたらは1円も入れないのか。働いてるのに1円も入れないのか」と。

一語一句同じ言葉ではありませんが、こういう発言をしていました。みなさん、どう思いますか?

 

日本という国は資本主義です。働けば働いた分だけ給料がもらえます。労働量に関係なく給料がもらえる社会主義国家ではありません。

働きもせず、ただ駅に座っているだけの人に、なぜお金を入れなければならないのでしょうか。あなたはそれに見合った労働をしたのでしょうか。働いてもいないのに金をくれ、それも上から目線で「てめえら働いてるのに1円もくれねえのか」という資格はあるのでしょうか。

逆です。働いているからこそ、自分で汗水流して働いて得た大切なお金だからこそ、働いていない、ただポーチのようなものを広げて座っているだけの人にお金を投げないのです。

 

例えばある日突然、勤務先を解雇され、新たな勤務先も見つからず、やむを得ずホームレスになったというのであれば、それは支援しますが、この人はどうなのでしょうか。

少なくとも、僕が専門学校に登校し始めた今年6月から、登校する日は必ずこの人の顔を見ています。

どのくらい投げ銭があったかは知りませんが、ありがたくいただいたお金で銭湯に行って、古着屋に行って服を買って、住所なしでも働けるところもあるんですから、そういうところで働いて、このホームレス生活から抜け出そうと思えば抜け出せるわけですよ。

でも半年間この駅に居ますし、そういう努力もしてないのでは?

 

こういうことを言うと、どこかの人たちは、
「憲法ですべての人が法の下で平等、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利がある」と主張します。

が、国民には三大義務がありますよね。『教育の義務』『勤労の義務』『納税の義務』。憲法にもこう書かれています。

憲法27条
1項 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。

出典:日本国憲法 | e-Gov法令検索

このような方々は『勤労の義務』を果たしているのでしょうか。国から公的サービスを受けるのであれば、勤労をしていなければなりません。働いてもいないのに、困ったら国に金をせびるなんてことはありえません。

憲法の都合のいいところだけを切り取り、都合の悪いところは無視する、そのような幼稚なことは見ていて呆れます。

働いていない人に金をあげてしまえば、働いている人からしてみれば、「なんだ働かなくても金が入るじゃん」となり不公平ですし、働くのをやめる人も次々と出てくるでしょうね。

そうなれば、ナウルのように経済が破綻し、国民の90%が無職になり、勤労意欲を失い、数十年後には「勤労で給与をもらい生活する」ということすら忘れるのでしょうね。日本をそのような国にしたいですか。

 

渋谷で路上生活者が撲殺された事件、撲殺された女性は一部報道でコロナ禍で職を失い、やむを得ず路上生活することになった方とのことで、そのような方が殺害されたことには深い悲しみと、犯人に強い怒りを覚えます。

その後、デモが起こり「彼女は私だ」「路上生活者を追い出すな」「排除やめろ」みたいなフレーズが書かれたプラカードや段ボール板などが見受けられましたが、これはどうなのかな。

公園は公共の場所、みんなの場所ですし、道は多くの人が行き交う場所です。駅も鉄道会社の所有地になりますし、所有地の中にずっと居るのはおかしいでしょ。

公園も河川敷も公共の場所、みんなの場所なので、路上生活者がそこで野宿すること自体は否定しません。しかし、そこに段ボールで家を建てたりするのは、他の人からしてみれば迷惑。これは個人のホームレスに対する嫌悪感とは関係なく、一般的に考えれば迷惑だということです。

道も同様で、道は多くの人が歩く場所。そこにダンボールで家みたいなものを建てられたら、人の流れが阻害されて邪魔ですし、迷惑なんですよ。

公園や河川敷、公道はみんなの場所であり、路上生活者だけの場所ではありません。そこに路上生活者の家を勝手に立てるのは、公共施設の私物化で、「排除ヤメロ」といいますが、排除されて当然です。

駅も鉄道会社の私有地であり、いわば他人の家に勝手に住み込んでいるようなもので、排除されて当然です。自分の家の庭に知らない人がダンボールで家つくってたら嫌でしょう。

 

その他、「政策に難あり」など言う人も居ましたけど、だから働いても居ない人に、補償をするなんてことはありえない。生活保護だって能力に応じて勤労をしていなければ、受けることができません。逆に言えば、路上生活から抜け出す気があれば生活保護を申請して働けばいいんです。でもそれをしない。

働こうともしない人に、税金で補助、補償をするのは、働いて税金を納めている人に失礼ですし、不公平です。

何度も言うようですが、急にクビになり、新たな勤務先も見つからず、やむを得ず路上生活をしなければならなくなった、でも働いて路上生活から抜け出したい!と言う人には支援をすべきですが、働こうともしない人に支援をするのは僕は反対です。

 

自助、共助、公助と菅首相が発言し、立憲民主党の枝野党首が「責任放棄だ」と批判していましたが、既に投げ銭でお金をもらっていて(共助)、生活保護制度もあって(公助)、あとは何かって自分で働く(自助)なんですよ。

あくまでも僕の意見ですが、自助・共助で何とかならなかったときの最終手段で国が助ける「公助」があると思うんです。

自分で働こうと思って、周囲の他人も助けてくれたのに、働けないというときに、公助(国)がある。自助もしないで初っ端っから公助を求めるのは、「楽してカネをもらいたい」としか思えません。

なので、枝野さんの菅首相に対する批判は遺憾ですし、というか枝野さん自身も過去に「自助」と発言していたではありませんか。

2005年には、「生活保護はまさに自助・共助・公助だ」
2011年には「自助・共助・公助の最適なバランスで支えられる社会保障制度に改革」

なんでしょう、立憲民主党になったら民主党時代のことは無かったことになるのでしょうか。この枝野さんの発言には同意です。自助・共助・公助の最適なバランスで支える社会保障制度。自助なしで公助だけというのはそれは適切ではない。

 

今回のホームレスの「ほら、1000円も入れてくれる親切な人がいるのに、あんたらは1円も入れないのか。働いてるのに1円も入れないのか」という、働いても居ないのに働いている人に上から目線で発言することに怒りを覚えますし、その発言から垣間見える金をもらえて当然という思想は不愉快ですし、怒りを覚えます。